東に海を構える南三陸町において、津波は昔から切っても切れない問題でした。
明治三陸大津波・昭和三陸大津波・チリ地震津波と、かつても大きな被害を受けてきましたが、今回の東日本大震災の津波は過去最大のものでした。震度6弱の地震の後15mを超える津波が町を押し寄せ、市街地である低地をほぼまるごと飲み込みました。
海から約500mに事務所があった南三陸町観光協会の及川さんは「海から近いところだったので、地震直後にすぐ高台に避難しました。避難しているときは『いつ事務所に帰れるのかなあ。忙しいのに』と考えていましたね。まさかあんなに大きな津波が来るとは思ってもいませんでしたから…」。
事務所は、津波により跡形もなく流されてしまいました。
「見るものではない」
「南三陸復興ダコの会」の阿部博之副会長は震災翌日、助けに行った志津川の中心地で立ちすくんだと言います。「これは見るものではない、見せるべきものでもないと思ったよ。あまりにひどすぎて」。
民家・商業施設・漁港・幹線道路・線路・橋…、小さいながらも賑やかだった町の中心地は津波に奪われ、地震による地殻変動により約70㎝の地盤沈下も起こり、現在も水が引いていない場所が多くあります。
町民約18,000人のうち死者・行方不明者数が約850人ということからも、被害の大きさを推し量ることができます。「町の人間のほとんどが身内の誰かしらを失っている。悲しいけれど、現実なんだ」。
津波に向けて船を
「地震が来たら、水深の深い沖へ逃げろ」とは昔から漁師に伝わる言葉。漁師の阿部さんも地震の後、船を守るため漁港へ急ぎ必死に沖へと船を走らせました。
家族や町が心配でしたが、余震を考慮し沖に留まり一晩たってから港に戻ると、そこには変わり果てた光景が…。
「船を流されてしまった仲間も大勢いるし、タコ漁に必要なタコ籠もほとんど流されてしまった。いつかは大きな地震と津波が来るとは思っていたけれど、まさかここまでとは…。“想定内の想定外”だったよね」と震災当時を振り返ります。
震災の爪痕が未だ色濃く残る南三陸町。
その中にあって力強く動き始めた海の男と、海と共に生きてきた南三陸町の誇りであるタコ漁の復興に、ぜひ力をお貸しください。
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